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本文=ローマ書6;12〜23.
今日は8.15解放64周記念主日です。1945年8月15日韓国は旧日本帝国の殖民から解放された日です。
日本では終戦記念日とも言います。
むかしイスラエル民はエジプトから神様の命令によるモーセ様の導きで解放さたことがあります。
韓国も神様の助けで解放されだと信じます。我らの韓国は日本と解放の為戦った軍隊は無かったからです。クリスチアンの祈りと神社参拝反対の事でご獄中に入れ込まれた主の僕達の祈りによって神様の助けにより解放されだのは間違い御座いません。
過去解放以前には韓国人は引っ張られて日本軍隊に入り日本軍になりました。終戦以後に戦犯として連合軍裁判に掛けられ死刑にやられた韓国人もいます。しかし今は、日本国から自由を取り自由大韓民国人になり、勿論韓国軍隊にも入りますが、今は自分の国の為に兵隊に呼ばれました。過去の軍隊とまったく違います。
今日の本文によったら我らクリスチャン達はイエスキリスト様のお陰で罪から解放されたのは、神様の賜物だと書かれでいます。(17〜18)我ら信者の信仰前の生活は罪の為、世の為、悪魔の為の奴隷でしたが、今は罪から、死から、悪魔から、解放された自由の神様の子供の生活です。
ですから今は神様に使わされる栄光な僕になっています。(16〜18)パウロは当時の人達の理解を求めで、奴隷の例を使い、罪の奴隷、義の奴隷と比較し理解安く延べでいます。17‐18節.
パウロはここで,罪から解放されて,罪の奴隷から義の奴隷へと移されたことの力と栄光を,すべて神に感謝すべきことの賜物だ(17)と語ります.
義の奴隷となる(18)ことは,伝えられた教えに心から服従する(17)ことであると語っています.その服従を通して,他に対する範例となるべく召されていることにおいて,義の奴隷として生きる者とされているのです。
19節.かつて罪の奴隷であった者が,今は神様に奴隷として従い,聖潔に進みなさいと勧められ、神様中心の生活,自己否定の生活へと向かわなければならないでしょう。
20‐23節.罪の奴隷の生活と,神様の奴隷の生活,そのそれぞれが行き着く結末が対照的に語られます.
罪の奴隷の生活は,義の要求に無関心,無感覚の生活であり,それらのものの行き着く所は死(21)なのでありましょう.この死は,神からの完全な遺棄を含む永遠の死にほかならないのです.
神の奴隷の生活は,聖化を豊かに実らせる果実をもたらし.その行き着く所は永遠のいのち(22)なのであるのです.
したかって私たちの前に2人の主人が立っています.罪という主人と、神様主人でしょう。
罪に仕えた時,どんな〈報酬〉(23)(実)を受けたか.それは死という報酬にほかならなかった.しかし,神という新しい主人に仕えた時,そこで受けるものは,賃金といった当然の報酬ではなく,私たちには不相応な「賜物」である、「主キリスト・イエスにある永遠のいのち」なのであるのでした.罪は死の罰を当然の報いとしてもたらす.神の〈賜物〉(〈ギ〉カリスマ)は,神が一方的に与えて下さる贈り物である永遠の生命,不朽の生命であるのです。(23)。
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